2020/07/29 21:02

グラフィック・デザイナーの戸田ツトムさんが亡くなった。80年代から90年代にかけて膨大な量の先鋭的なデザインを生みだした人だ。
僕は彼のアシスタントとしてデザイナー人生を歩み始めた。ちょっと長くなるけれど、その頃のことを書いてみたい。

武蔵美の卒論で最優秀賞を取ったものの、デザインの実技の成績は最低だった。というのは教員たちにセンスがなかったからだと今でも思っている。
PUNK〜Newwave世代のデザイン感覚をまったく理解できなかったのだ...彼らは。

卒業後、デザインを諦め、CF制作会社に就職しながら阿木譲さんの『rock magazine』が東京に支部をつくるというので、そこに出入りしていた。阿木さんも一昨年、亡くなってしまった。

そこでイーレムというNewwaveなユニットと知り合い、戸田さんがアシスタントを探しているから受けてみたらと言われた。会いに行ったらすぐに来てくれということになった。

仕事はとてもキツかった。戸田さんは人には愛想が良いが、かなり冷酷な性格だ。
怒られたことはなかったけれど、延々と徹夜というのはよくあった。戸田さんは帰宅しちゃうけれどね。
過労で倒れたこともあったし、酷い話はたくさんあるけれど、ここでは控えておく。

不思議なことにそれでも、辞めたいと思ったことはなかったのだ。ともかく情報量の多い事務所だった。

劇団天井桟敷のポスターを担当していたから、寺山修司さんがよく来ていた。ものすごく服装のセンスがなくて可笑しかった。
工作舎の仕事もしていたので使い走りで行って、松岡正剛さんとも会った。3年くらい前、彼の事務所の忘年会で再会して、いろいろ話した。僕の『倒錯の都市ベルリン』を読んでくれてたしね。

そして一番情報量が多かったのは戸田さん自身のデザインだ。あらゆる痕跡(=ノイズ)がデザインの端緒となりうると考えていたから、彼のデザインは図像や文字だけでなく、ノイズも入り交じる膨大な情報量となった。
掲載したポスター「観客席」を見ればそれがよくわかる。わざと逆版にして先鋭極まるものだ。最高傑作かもね。

僕は、彼が刊行していた『MEDIA INFORMATION』の作業で雑誌作りと、そしてデザインを学び直した。武蔵美の教育はまったく無駄だったけれど、戸田さんのところでの短い期間は数年分の濃さがあった。

昔の徒弟制みたいな感じで何も教えてもらえなかったが、間近でデザインが出来上がるのを見れた。
怖ろしく早い。そう、「デザインは早くなければいけない」ことも学んだ。迷っているうちにそのデザインは死ぬのだ。

僕は自分で雑誌を創刊することを目標にしていたのでクビになり、再会することはなかった。
ただ、ずっとのちに戸田さんがやっていた季刊誌『d/sign』から原稿依頼されたことがあった。

戸田さんは再会したかったのかもしれない。

写真の『ガルボ』は、僕が熱狂的なガルボ好きだということで、けっこうデザインをやらせてくれた。欧文タイトルはフォントではなく僕の手描き。肝心なところや用紙や色指定は完全に戸田さんのもの。
でも、デザイン・クレジットに名前を入れてくれて嬉しかった。

舞踊家の田中珉さんは、若くて格好良かった。
珉さんの公演パンフレット『BODYPRINT』はレイアウトが怖ろしくエッジが効いていて格好良かった(写真右端)。これもアシスタントとして作業した。
ただ、戸田さんのレイアウトはまったく「読む」気になれなかった。僕がその後、デザイン的に違う方向に行ったのは、「読む」ということを重視したからだ。

感覚的には僕は、阿木さんのほうが近かったように思う。阿木さんとの話もいろいろあるけれど、もう長すぎる。

人はみな死んでゆくものなので、あまり悲しいとか残念とか思わない。「ひとつの時代が終わった」などという凡庸な言い回しは一番嫌いだ。
時間は途切れなく永続的に流れ、断絶することがないのだから。
ひとつ思うのは、いつも言っていたことだが「戸田さんは性格悪いけれど、真の天才で、日本で最も天才的なデザイナー」だったということ。

ひとはよく安易に「天才的な」という形容をつけるが、そんなのほとんどいない。でも、戸田さんは天才なのだ。

戸田さんと(一時、コンビを組んでいた)松田行正さんと僕の3人はみな、コンピュータ好きで、デザイナーとしてはかなり早い時期にコンピュータに移行した。

その頃がいま、一番懐かしいかもしれない。