2020/10/17 23:03

「バビロン・ベルリン」がまた無料放送されている。1929年のベルリンを舞台にしたドラマだ。

昨夜、再度冒頭のシーンを観ながら、ちょっと考えていたことを一気に書いた。ドラマのことよりも僕自身の文化史的なものへの考えと、自身の著作に通底する視点の軸がどこにあったかなどを考えながら。
「バビロン・ベルリン」の第1話の出だしはこうだ。
第一次世界大戦直前のケルンで軍服姿で教会を出る主人公にナレーションが被さる。
...きみは戦争を待ち望み、身一つで出征するのが待ちきれない...
そう、みんな戦争を待ち望んでいたのだ。
この一節は第一世界大戦直前の時代の「気分」を見事に言い当てている。
「気分」というのは、歴史においてとても重要なファクターだが、「気分」について論じたものはおそらくほとんどない。
哲学・思想・政治・文化などはいくらでも論じられてきたが、あまりにも輪郭のない「気分」というものを一巻の書物として論じたものはあるのだろうか?
ワイマール期ベルリンのカバレチストの作曲家ミッシャ・シュポリアンスキーは「空気に漂うこの何か」という曲を残した。それは20年代ベルリンの最も核心にある言語化しづらい事象、はっきりとした輪郭を与えることのできない時代の「気分」を楽曲にしたものだ。
「空気に漂うこの何か」とは、哲学・思想・政治・文化などを呑み込んだうえに、あるいはそれらを無化したうえで、最も大衆に影響力を持った一種、ブラックホールのような「何か」だった。
「気分」には、明確な時間軸も記録された史料があるわけでもない。空気に漂うこの何かなのだから。
 それゆえ明解に歴史に組み込むことができなかった。それは歴史学の欠点でもある。
 記録に残されなかった歴史を拾いだすだけでなく(それはアナール派が試みた)、空気そのものをどこかから探ってこなければならない。
 それには膨大な量のクズのような細かな流行事象をあたることも必要だろう。
「バビロン・ベルリン」の、物語はさておいて衣裳風俗を言うなら、このドラマはおそらくそうした拾われなかった流行事象まで丹念に調べて再構築している。ハリウッド映画の時代考証・衣装考証など、その比ではない。
 結果、このドラマはおそらく映像史のなかで、初めて20年代ベルリンの「空気に漂うこの何か」を「再構築」したのだ。
労働者階級の女性のちょっとしたカーディガン、カフェの食事、最下層の人々のあまりにも薄汚いさま。それはこれまでの映画にもいくらでも描かれてきたようで、じつは、ある程度知られたシルエットをなぞってきただけだった。
「状態」はそれでわかっても、その場の「空気に漂うこの何か」について感じることはできなかった。シネフィルとしてかなりの量の映画を観てきた人間の実感だ。
スタンリー・キューブリックは「バリー・リンドン」で、18世紀の世界を精緻に再構築しようとした。それはある程度成功した傑作作品となったが、地面から立ち上る匂いのようなもの。あるいは画面を横切ってゆく見えない空気=透明なクラウドまでは表現できていなかったと思う。
「バリー・リンドン」ほどの傑作ではない、あるいはTVドラマゆえに最初からその映画的「傑作」性というものから見捨てられた存在として、「バビロン・ベルリン」を観るとしても、そこになんとか輪郭を与えられている、あるいは匂いのように立ち上ってくる「気分」が描かれていることを認めないわけにはいかないだろう。
それを感じ取れないならば物語に耽溺すればいい。だが、物語なるものを醸成するもののひとつが「気分」であり、いまこそ「気分」というものの重要性を認識すべきときなのだ。
 もしや哲学や思想が一種の終焉を迎えるような事態になったとしても、「空気に漂うこの何か」は確実にどこかに存在し続けるのだろうから。
「バビロン・ベルリン」の第1話には次のようなシーンがある。主人公の風紀課の刑事がポルノ撮影現場で押収した写真を持ってエレベーターで降りてくる。
 ヒロインのひとりとなる女性が殺人課で現場写真の整理のバイトを終え、エレベーターで上がってくる。
ドアが開き、出会い頭にふたりはぶつかり荷物を床に落としてしまう。
 恋愛の端緒としての典型的な演出だが、ここでは空気が違う。刑事はポルノ写真をばらまき、女性は死体写真をばらまく。ポルノと死体。それはこのドラマの軸となるもので、それがたった数秒の映像で象徴される。
「倒錯の都市ベルリン」。
これは僕が28歳のときに書いた本のタイトルだが、2020年のいま、ドラマとともに1929年のベルリンを想起すると、まさにそれは「倒錯の都市」であったとしかいいようがない。