2021/07/04 14:26

この夏、ドキュメンタリー映画「ココ・シャネル 時代と闘った女」が公開されるということで、雑誌『ユリイカ』で、「ココ・シャネル」特集が組まれた。
あまり文芸誌に縁のなかった僕ですが、昨年の同誌の「総特集*戸田ツトム」での追悼原稿に続き、今回はシャネルとスキャパレリについて書いて欲しい、と依頼があった。
エルザ・スキャパレリ。いまは広範に知られているのかなぁ、この名前。少なくとも20年前はファッション史に詳しい人しか知らなかった。というのはスキャパレリは1954年にメゾンを畳んで以降、ブランドが継承されなかったからだ。
香水事業やストッキングなどの小物の事業だけスキャパレリ・ブランドが継続されたが、メゾンは消失し、スキャパレリの名も作品も忘れ去られていった。

こう書くと手前味噌になってしまうが、2002年に雑誌『スタジオ・ボイス』の「ファッション・アウトサイダー」特集で忘れ去られたデザイナー、あるいは才能はあったもののあまり評価されないまま消えてしまったデザイナーたちに焦点を当てて原稿を書いた。そこでエルザ・スキャパレリを紹介したのだ。
この原稿はpapier colle(筆者主宰)のサイトにアップしたこともあって反応が多く、「あの原稿読みました!」と何度か言われたりした。
そんな経緯もあって2008年、エルザ・スキャパレリの自伝の『ショッキング・ピンクを生んだ女』の翻訳監修をすることに。これはいろいろ経緯があるので、また別に詳細を書きます。

この自伝は初版のみで絶版になったが、2016年にNHKの海外ドキュメンタリーで「シャネルVSスキャパレリ」が放送されると古書価格が急騰し、その後、僕は編集工学研究所から「スキャパレリを日本に紹介した男・長澤 均」なんて大仰なタイトルでnote上で紹介された。
https://note.com/1000yalab/n/n8fb55aef43c8

そんな諸々が今回の依頼原稿につながったと思う。
世にシャネル好きは多い。ブランドとして好きというだけでなく、ココ・シャネルが自由で自立した女の見本のようにいう人も多い。
それはそれでいいのだけれど、シャネル伝のなかにはライヴァル関係だったスキャパレリを貶めるような書き方をしているものもある。リサ・チェイニーの『シャネル、革命の秘密』などは、狡猾に人の言葉を引用してスキャパレリのデザインを「下品」とまで書いている。いやはや。

今回の原稿は、シャネルとスキャパレリの対立を「モダニズムと古典主義」的対立を孕むものとして論考した。
ダダからシュルレアリスムへの移行、20年代のファシズム台頭、20〜30年代の芸術における古典主義美学回帰といった思潮には通底するものがあったのではないか? と、このところずっとそのあたりを探ってきた。
イタリアでムッソリーニが政権を握ったのが1922年。アンドレ・ブルトンによるシュルレアリスム宣言が1924年。そして1910年代に形而上絵画なるものを描いていたジョルジュ・デ・キリコが古典主義的画風に回帰したのも1920年代。
これらの事象に共通する心理はなかったのか? 筆者にはファシズムとシュルレアリスムは鏡の裏表のように見えたりもする。危機の時代のサインのような。。

そんな論とは別にこんな逸話も。
当時の売れっ子のファッション・フォトグラファー、ホルスト・P・ホルストは、スキャパレリをバロック風の鏡に映したポートレートを撮った。
これを見たシャネルは、激しくライヴァル心を燃やし、ホルストに「私もあんな風に撮って!」と要求したという。
辟易したホルストは似たような楕円のバロック的フレームにシャネルを収めて美しく撮ったが、わざと棺桶に横たわっているかのようにしたといわれた。どこまで真実かは不明ですが。
シャネルはスキャパレリを激しく憎悪し、いろいろなところでスキャップ攻撃を仕掛けたが、スキャップはその自伝で数行しかシャネルについて触れていない。
それはともかく「神話」とはつねに強者のほうに味方するもの。シャネル神話というものも、「勝ち組」にいくつも付加された神話だったように思えなくもない。