2021/11/18 19:53

「シネフィル」という映画サイトを運営している角さんから、久々に連絡があって彼がアドバイザーを務めている映画館〈シアターギルド〉で、ギャスパー・ノエ 監督作品『アレックス STRAIGHT CUT』の上映後のアフタートークに出てくれという。
あぁ面白そうね、と思ったがそもそもギャスパー・ノエの作品を観ていない。マズイ...
新作の元になった2002年製作の『アレックス』のレビューなどを読むと、ともかく残酷描写がすごく、レイプシーンは9分もあるし、カンヌ映画祭では席を立つ観客があとを絶たなかったとか。
基本的に残虐な描写が苦手である。暴力シーンも好きではない。レイプなどもってのほか。女性崇拝者なのだから、そんなの観れないでしょう?
というわけで断ろうと思ったのだけれど、なんか数日が過ぎて断れない状態に。。
角さんが資料一式を送ってくれて、そこには『アレックス STRAIGHT CUT』の関係者向けのサンプル映像のリンクもあった。

しゃーない、少し観るか。ちなみに新作『アレックス STRAIGHT CUT』というのは、『アレックス』が時系列を反転して結果から始まりに遡る映画だったのに対して、時間軸のとおりに、つまりストレートな時間で編集し直された作品である。
『アレックス』を観ていた人はどう思うのだろう? ラストシーンだったはずの公園の平和な風景からこちらのストレートカット版は始まる。
そしてモニカ・ベルッチとヴァンサン・カッセルのセックスシーン。僕はポルノ映画の歴史に関する分厚い本を書いたが、じつは一般映画でのセックスシーンが苦手である、というか嫌いだ。
なぜかはわからないが、それを描く必要が感じられないからかもしれない。1970年代に数々の秀作を生んだイタリアのエロティック・コメディというジャンルなどは大好きなのだから、自分でもこの線引きの基準がなんなのかはわからない。
おそらく体質のようなものだろう。

ベルッチとカッセルは、ベルッチの元カレ、デュポンテルと3人で出かける。エレベーターでの3人の会話のシーン。カメラもエレベーター内だ。そのままカットせずに3人が出て地下鉄に乗る。カットがない。
地下鉄での延々と続く会話、そして降りる3人。ずっとカットなしだった。
かなりの驚きをもってのめりこんだ。
それ以降のさまざまシーンもまるでワンシーン・ワンカット映画を目指したように切れ目がない。もちろんカットして繋げられてはいるのだ。
それはどうやっているかというとカメラが天井とかを写し暗転し、その暗転から次のシーンに繫ぐという手法なのだ。
これはすでにヒッチコック監督がやっていた。

ヒッチコックのワンシーン映画的試み

1948年の『ロープ』でヒッチコックは、壮大なワンシーン・ワンカット映画を目指してもの凄い撮影と編集の妙技を尽くした。
当時の大型カメラで1巻のフィルムが撮影できる時間は15分程度だったので、カットなしのワンシーン映画を撮ることはできない。だいたい映画的快楽とはモンタージュが基本にあるのでワンシーン映画などは無謀なのだ。
でも、ヒッチはそれを試みた。
どうやったかというと1巻のフィルムが終わるころ、カメラは登場人物の背中とかをアップで撮影して暗転、そこから別の人物の背中に繋ぎ、そこから別のシーンが始まるという手法だ。それを巧妙にやると映画は1本丸々、カットなしでつくられたかのように観れる(もちろん実際には繋ぎを意識することになるが)。
細部まで練りに練られた映像だったが、やはり多少の無理はあってヒッチコック作品としては、その実験的手法への評価はあっても映画としてはさほど評価されなかった。
十分面白かったですけれどね。映像のスペクタクルとはこういうことかと唸らせられた。

↓ A・ヒッチコック『ロープ』

カットなしで90分続く『エルミタージュ幻想』

ほんとうのワンシーン映画というのがある。2002年に製作されたアレクサンドル・ソクーロフ監督のロシア映画『エルミタージュ幻想』。『アレックス』と同じ年ではないか。
この映画はカメラが室内を流れるように流麗に動きながら、それぞれの人物の会話などがフレームに入ってくる。しかも90分まったくカットなしで。
映画でカットなしというのは奇跡的なことなのだ。演劇とは違う。
演劇の観客のように固定した視点で映画をつくったのは最初期だけで、その後の映画はカメラはパンし、ズームアップし、場面は断ち切られるのだ。
それが映画の文法をつくった。その文法があたかも組み込まれているかのようにワンシーン・ワンカットの映画をつくることは奇跡的なのだ。しかも俳優は失敗が許されない。登場人物が多ければ、それは精巧な機械式時計のように寸分の狂いもなく画面に入り、演技し喋らなければならない。
それを『エルミタージュ幻想』はやったのだ! 

...ただしあまり面白くなかった。
すべての人物が計算され尽くして画面に入って消えていく分、映画そのものが「計算機」のようになってしまった。観客は映画になにがしかエモーショナルなものを望み、観るのだが、この映画は技巧を駆使したことで計算だけが残ってしまったのである。
撮影は3回はうまくいかず、4回目にやっとミスもなくうまく90分撮れたという。当時、すでに非圧縮デジタルで100分撮れるハードディスクが開発され、そこに映像を記録したからヒッチコックのようにフィルムの1巻の長さに悩む必要はなかった。

↓ A・ソクーロフ『エルミタージュ幻想』
さて、『アレックス STRAIGHT CUT』。ヒッチコック的手法でうまく90分の映像をつなぎ、ほとんどワンシーン・ワンカットのような映像を「計算」を感じさせずにつくった。
レイプシーンも、最後の顔が砕けていく残虐シーンも嫌だけれど、でも、この映画は傑作なのだ。
しかもレイプシーンの撮影が見事だ。
それまでカメラは縦横無尽に人に寄り添い、天や地を写して動いていたのにレイプシーンでは地下歩道の地面に固定される。ほとんど「投げ置かれた」と言っていい。
これもなんという映像のスペクタクルだろう。いきなりカメラが固定されるとは!
次のシーンに移ると、カメラは他のシーンのように動くからレイプシーンのみ固定映像が際立つのだ。

映画に物語を観る人が多いが、僕は物語が苦手でストーリーがアタマに入ってこないことがよくある。そのシーンについて考えていると当然、字幕もアタマに入らない。
でも、それでいいでしょう、映画は。小説を読んでいるわけではないのだから。

後日、2002年の『アレックス』のDVDを買って観た。物語の最後の残虐シーンから始まるから、こちらを先に観ていたら僕も途中でリタイアしたかもしれない。
時間軸を逆にしたといってもテープの逆回しではないから、シーンというブロックの並び替えのような印象だ。カットが少なく長いゆえにひとつのブロックが長くなり、こちらはあまりワンシーン・ワンカット的な感興はなかった。
そもそもワンシーン・ワンカットとは時間を断ち切らずにシームレスに時間進行するものだから、ギャスパー・ノエがあとになって編集したストレートカット版のほうが、ワンシーン・ワンカット風には合っているのだ。
どちらの作品が優れているかということではなく。

映像のスペクタクルとは、派手なアクションやCGによる映像のことではない。
それはその映像について思考させ、物語さえも無効にしてしまうような映像のことである。そういう意味ではジャン=リュック・ゴダールの映画はすべてスペクタクルである。
『アレックス STRAIGHT CUT』は見事に映像のスペクタクルを現出させた傑作映画である。
2021年10月29日より公開