2022/12/18 14:09

先日、「愛書家のための小間物ブランド~霧とリボン」で合田ノブヨさんの作品について書いた。
1点の作品についてだけなので、字数は少ない。
なので、こちらにもう少し本格的に合田ノブヨさんについて紹介したく思った。
いま、回顧展が開催されている画家、合田佐和子を母にもつノブヨさん。
ご本人にもお会いしたことはあるのだが、その作品世界を知ったのは最近のこと。

何か琴線に響くものがあったのだ。

コラージュという技法を最初に始めたのは誰なのだろう? 
美術史的には1912年頃にジョルジュ・ブラックやピカソが始めた技法〝パピエ・コレ〟がコラージュの始まりとされている。
すぐあとにダダイスムもコラージュの戦列に加わる。
そのなかにはマックス・エルンストもいた。そしてエルンストがシュルレアリスムに移行したことで、シュルレアリスム的なコラージュの文脈が生まれる。

ダダのコラージュと、シュルレアリスムのコラージュは似たような異化の作用をもちつつ、違う側面を持っている。
ダダが写真や雑多な素材を組み合わせて「現実を破壊する」、あるいは「政治的な揶揄をする」のにコラージュ手法を用いたのに対して、シュルレアリストは「すでに存在するもの」を組み合わせて「存在を非現実化」した。
これはその後のコラージュ史がずっとその二局面を引きずることにつながった。

1960年代に流行ったコラージュは、どことなくダダに近い(実際、ネオ・ダダ運動もあった)。
でも、その後ずっと主流を占めているのはシュルレアリスム的文脈を持つコラージュである。
しかも女性作家がほとんどだ。なぜなのだろう?

シュルレアリスム的文脈をもつコラージュにはエルンスト以来、「現実を異化」することによって、ある種の「物語」を紡ぎ出してきたように思う。
何の物語もない唐突な組み合わせでも、どことなくそこから物語を感じ取れる、あるいは何かあるのかもしれない。
それが連綿と続くコラージュ作品の魅力であり、女性作家が多いのは、こうした物語性との親和力が関係あるのかもしれない。

合田ノブヨさんの作品は変幻自在だが、シュルレアリスト的な嗜好性も備えている。植物と鉱物だ。
鉱物は硬質に凝固し、植物は自在に変化してゆく。この両極の魅力はたとえば日本では澁澤龍彦が一番の伝道者だったかもしれない。

合田さんの使う花(たとえばビオラ)や葉茎は、自分で育てたものだ。
それを17世紀から伝わる技法での手漉きコットンペーパーにコラージュする。添えられた美しいカリグラフィーも彼女の手になるものだ。
最近の作品は、卵に草花を染めて繊細で脆そうで美しい。
じつに手間がかかっている。
人は手間のかかるものに感動するものだ。そして手間のかかったものには「細部」がある。
ビオラの襞の細部がいかに絶妙な美しさかを合田さんは言う。作家が作家たるために必要なのはこうした「細部」ではないかとも思う。

しかし合田さんの面白いところは、別の側面もあることだ。ケット・シーのモール人形など茶目っ気たっぷりではないか。
画家である亡き母、合田佐和子さん(筆者は1970年代から大ファンだった)が所有していたモノだけで、現在の家がとんでもない状況になっていることなどを、思わずツイートしてしまう。
アーティストの神秘性とやらを異化してしまって、ノブヨさんの生き方や発言自体がコラージュ的心性を体現しているかのようだ。
そして創るものは、あくまでも美しく繊細で、奇妙でもあり、ときにユーモラスで茶目っ気もある。
だから誰もが彼女の作品を好きになってしまう。
コラージュという技法が廃れないのは、こうした作家が存在し人々を魅了し続けているからだとつくづく思うのである。

HITOSHI NAGASAYA & 合田ノブヨ|メルヴェイユのはざま《1》|冬の羊歯