2023/02/02 14:44


『ハルムスの小さな船』という本に出会った。
装幀・造本のセンスが良く、イラストにも強い惹きがあった。
ハルムス...作者はダニイル・ハルムスという。まったく知らない作家だった。
挿絵は西岡千晶。絵本のようだが日本で挿絵を入れたとなると、もともとは絵本ではなかったのか? と想像した。

西岡の絵が素晴らしくて、この本のなかにとても驚異=Wonder、あるいはMerveilleに思えるようなことがたくさん詰まっているのだろうと想像した。

ダニイル・ハルムスとは何者か? 調べた。
1905年サンクトペテルブルク生まれ。
父はロシア帝政に対しテロリズムでの変革を目指した「人民の意志」派の主要メンバーのひとりだった。

いっとき「ナロードニキ」からサヴィンコフの社会革命党戦闘団まで、帝政期の革命運動に関する本に没頭したことがあった。
テロリズムが横行したが、当時の帝政ロシアの盤石さにはテロリズムぐらいしか選びようななかったことも理解した。
驚いたのは貴族階級の師弟、とくに若き女性がテロリストの先頭に立っていたことだ。これは衝撃を受けた。
彼女・彼らは若くして逮捕、処刑され、あるいは爆弾製造時の事故で四肢を失い、シベリアに流刑になったり、痛ましいとしかいいようがなかった。
「ヴ・ナロード(人民のなかへ」)を標榜しながら、彼らが救いたかった農民のほとんどは奴隷状態にありながらも帝政に忠実だったのだ。
革命派のテロリストたちの死は、どれも自己の理想に殉じた無駄死にとしかいいようがない。

ダニイル・ハルムスの父は、そんな時代に革命派として生き、ダニイルはロシア革命からスターリン独裁へ至る時代に生きた。


一見、不条理文学、ノンセンスのように思える彼の散文や詩は、そんな時代の重たい雲に覆われたような世界だった。
ノンセンスだが笑えない。多くの作品に「死」が垣間見える。社会の不条理が反映されている。

 スピリドノフは自殺した。
 スピリドノフの妻は食器棚から落ちて、やはり死んでしまった。
 スピリドノフの子供たちは池で溺れ死んだ。

...そんな話がずっと続き、最後
「善き人々はどうしてもしっかりとした足で立つことができない。」と終わる。

スターリン体制下での日常の重苦しさが伝わってくる。
だが、これは文学たりえているのだろうか?

「失敗した芝居」という短い文は、

 舞台にペトラコーフ-ゴルブノーフが登場し、
 何か話そうとするが、しゃっくりする。
 (彼はオエッとなる。退場)

...次に誰それが出てきて「オエッとなる。退場」の繰り返し。
こんなものは文学ではない、と読みつつも、
最後に少女が出てきて
「みなさん、劇場は閉鎖です。私たちはみんな吐き気がするんです。」
の一文で、これが当時の人々の気分を如実に表現しているということを実感する。
1934年の作品。2年後にはスターリンによる「大粛清」が始まる。


巻末に中編小説が一本載っている。短編だが。
主人公の部屋に勝手に入り込んだ老婆が気がつくと死んでいる。入れ歯が外れかかっているという描写が凄惨だ。
それを放ったまま主人公は食べ物を買いに出る。
パンとソーセージを買うために長い列ができている。
そこで女性と知り合い、意気投合して自宅でウォトカを飲もうとなるが、老婆の死体があることを思い出し、女性を放って友人の家に行って飲み食いを始める。

不条理文学的といえば、そうだろう。この掌編があってダニイル・ハルムスは作家だと実感した。
...暗雲にのみ込まれた作家。
暗いというのではなく、どうしようもない暗雲のただ中にいて、そこから這い出しようもないといった感じ。
スターリン体制下のソヴィエトとは、こんな感じだったんだな、とつくづく思う。
ちなみに高校生のときに第一期トロツキー選集をすべて読み、スターリン圧政化の日常についてもたくさんの本を読んできた。

でも、一見ノンセンスな詩や散文、短編にこんなふうに時代の空気が垂れ込めていることを見ると、その
重苦しさを再認せずにはいられない。
西岡千晶のすばらしい挿絵が救った本だが、これが文字だけだったら読み通せなかっただろう。
そんな不思議な本。『ハルムスの小さな船』。