2023/03/23 20:10


三鷹市美術ギャラリーに【合田佐和子展】(3月26日まで)を観に行く。
合田佐和子を知ったのは、唐十郎の『鐵假面』(72)のB全ポスターを武蔵美生だった兄が家にもってきたからだ。
まだ高校生だったが、絵柄にけっこうな衝撃を受けた。

70年代後半になると阿木譲の『rock magazine』の表紙を合田が担当することになる。
大好きな雑誌で1980年頃、僕は『rock magazine』の東京仮事務所でボランティアしていたこともある。
それと雑誌『月下の一群』の2号も合田の絵だった。創刊号はピエール・モリニエの写真だったからこの雑誌には影響を受けた。


そして80年に僕はグラフィック・デザイナー、戸田ツトムのアシスタントになるのだが、そのときはもう戸田さんは合田の絵で「奴婢訓」や「レミング」のポスターをデザインをしていた。
現場を知っているのは「百年の孤独」のとき。
事務所には寺山修司がよく来ていたが、合田さんを見たことはない。

80年代に入って時代の気分が変わり、合田のシュルレアリスムが入ったデカダン的な暗さはあまりウケなくなっていった。
今回の展示でエジプトへの移住の試みなどを初めて知ったが、それもこの時代の変化に促されての模索だったように感じた。


合田佐和子は1972年頃に独学で油絵を始めたという。
その時点でけっこうスタイルが出来ていることに驚いた。しかも最初が100号サイズ!
ハリウッドスターの写真などを元ネタに、怒濤のようにあの「青ざめた」油彩を描くのが79年頃まで。
ほんの数年でテクニックは磨かれ、76年には円熟の域に達している。
円熟というよりもむしろマニエリスティックなのだが。
1974年の「ワニ」のヌメッと光るような鱗などは、まさにマニエラ(技法)に拘泥しているとしか思えない。


私見では72年から76年までが最も充実していた時期。77年から79年くらいまでは、本人が多少は行き詰まりを感じた時期ではないかと思う。
その後、彼女は「青ざめた」絵を捨て、大きく変貌していく。

個人的にはずっと「なぜ、あのように青ざめた絵を描いたのか?」を不思議に思ってきた。
絵の具が買えなかったなどと解説もあったが、やはり70年代初頭からの、過ぎ去った時代を懐古するノスタルジックな気分が大きかったように思う。
サイケデリックの季節が終わり、極彩色のものは消えていき、ユースカルチャーも失速。
大人びた気分で静かに暗く過去に耽溺するのが70年代半ばの時代精神(ツァイトガイスト)だったのだ。

展覧会会場で上映されている映像は、娘の合田ノブヨさんによる母・佐和子の思い出。
これがじつに滑らかな解説で、当時の合田の生活も垣間見えて、とても面白かった。
展示も充実しているが、解説キャプションはちょっとと思うものも。
ハーバート・リストの写真を丸々元ネタにして描いたものを、リストの名すらキャプションに書かれていなかったのでこちらにその写真を。

ポスターや雑誌もすべて網羅したものではないが、ここまでまとめて観れるのはやはり貴重。
合田佐和子の70年代について、さらに考えさせられる契機ともなった。