2023/04/28 16:31

フランソワ・トリュフォーが極度の脚フェチだということを、映画批評をやる人はほとんど言及していない。
トリュフォーのそんなところばかり気になって、自著『パスト・フューチュラマ』の「脚、下降するエロティシズム」で、その詳細を書いた。2000年のこと。
わかるんだよね、同じ脚フェチ族として。

『終電車』は公開時に映画館で観たきりだったけれど、最近録画したので観直した。
正直、もうあまりトリュフォーの作品に感心するところはないけれど、冒頭、カトリーヌ・ドヌーブがスーツの後ろ姿で登場するところから、トリュフォーの脚フェチが匂ってくる。
ナチ占領下のパリ、1943年の設定。ドヌーヴは女優であり、劇場も運営している。
なので稽古のシーンがある。ドヌーヴが脚を組む。
組んで欲しかったんだよね、トリュフォーは。

戦時下でストッキングが手に入らない。
劇場の女優たちが楽屋で、ファンデーションで脚を塗って、シームを描いていることを披露する。
歴史的に有名な話で、ミシェル・ボワロンも『学生たちの夜』で、フランソワーズ・アルヌールにそんなシーンをあてがっている。
じつはドヌーヴは脚本家である夫を劇場の地下室に匿っている。ユダヤ人なのだ...夫は。
螺旋階段で地下室に降りるドヌーヴの脚を何度もトリュフォーは撮る(螺旋階段なら脚を360度観れる!)。
何気ない演出で、誰もそんなことは気がつかないだろうけれど、トリュフォーはドヌーヴの脚を見ているだけで幸福だったのだ(...おそらく)。
夫が「君の脚を眺めるためさ」と言うが、これ、トリュフォー本人のことでしょう!(笑)
1943年だから当然、ドヌーヴはシームのフルファッション・ストッキング。
でも、トリュフォーは1969年の現代劇『暗くなるまでこの恋を』でも、ドヌーヴにガーターベルトにストッキングを着けさせている。
一瞬のシーンだけれど、見逃さなかったよ、僕は。

『終電車』は、まったくエロい映画ではないけれど、脚のシーンばかり画面撮影したら、なんかかなりのエロティック映画みたいになってしまった。ここに掲載した写真見るとね。。
いつも、いつも思うのだが、日本語字幕は画面の下ではなく、横に置いて欲しい。
だって、美脚やストッキングのシームを観察するときにかなり邪魔なのだ。

...と、こんな話ばかりだとアレなんで、映画評的なことを書くと、
結局トリュフォーは古典回帰して、さらには「演出」に回帰してしまった。
劇場が舞台だから余計にそうなる。もともと「教育」とか「演出」が好きなトリュフォーだから...
でも、あまりそういうのが匂わない『私のように美しい娘』(これは「教育」が反転してしまう映画)や『恋愛日記』が好きだな。
『恋愛日記』は、まんま脚フェチ男の物語だけれど。

どこかで「脚フェチ映画としてのトリュフォー作品」なんて論考書きたいね。ま、誰もそんな場は与えてくれないか。。この日本では。