2023/05/18 02:57

人と音楽との関わり方というのは、大雑把に言ってふたつの種類があると思う。
ひとつは青春期に聴いたものに大きく影響されて、そこで止まってしまうもの。
もうひとつは絶えず変化して、新しい音楽を受容していくというもの。

筆者の世代だと止まってしまった人を目にすることが圧倒的に多い。

ちょっと目上の世代だとビートルズやローリング・ストーンズ、いやいやCSN&Yだのディープ・パープルだのなんだの。
いまでも半世紀前の音楽の話しかしない。
同世代だとPUNKやニューウェイヴ、初期ヒップホップ止まり。

僕自身も中学生のときからビートルズに熱中して、サージェント期の写真を集めたし、
ポールの曲のコード進行も研究した。
ニューウェイヴのいくつものバンドはいまだに郷愁を誘われる。
ルックスが良かったものも多いしね。このあたりが青春のど真ん中だった。

でも、1986年にはニューウェイヴは死んだと思った。
ちょうどアシッド・ハウスの波が押し寄せてきていた。
そこからシカゴ・ハウスに遡り、ともかくクラブ系の音楽に夢中になった。
そのころソニー・マガジンズが新雑誌を発行するということで、
あの高城剛が僕にアートディレクターをやらないか?と話を持ってきた。
高城は彼が学生のときからのつき合いだが、その詳細はまたいつか。

じつはこの新雑誌はブラコン(ブラック・コンテンポラリー)雑誌だった。
でも、編集部は外部スタッフばかりだったから、ハウス・ミュージックの専門誌にしてしまおうと画策した。
野田努を音楽評論の世界に誘ったのはそのときだ。彼は編集工学研究所を辞めたばかりだった。

編集長もハウス系雑誌に乗り気で、こうして日本で最初のクラブ・ミュージック専門誌『pump』が誕生する。
1990年くらいのこと。
僕はデザインはもとより編集もできる部分はやった。原稿も書いた。
ヴァイナル・ジャンキーという言葉があるが、まさにそんな状態でヴァイナルを買いまくっていた。
いま思うとニューウェイヴを捨てて、ハウスやデトロイト・テクノやヒップホップに向かったか否かは、
大きな分水嶺だったように思う。

僕の好みはその後、ドラムン・ベースやエレクトロニカ、フォークトロニカに向かい、そこからボサノヴァへと逆回転していった。
いまでもギターで曲をつくるときは、ほとんどボッサ。
打ち込みでつくるとテクノだ。

つい最近、友人のDJ、Takahiro Haraguchiさんから、彼がオーガナイズするクラブ・イベントの
フライヤー・デザインを頼まれた。とても楽しい仕事だった。
過去の様式にしがみついてもしょうがない。
音楽でもデザインでも、過去を引用したとしても何かしら刷新していかないとつまらない。
あらゆる「過去」は、すべて終わった時間のことなのだ。