2025/04/12 04:41

1986年はカルチャー史においてひとつの分岐点だったように思う。
個人的な主観・好みも入っての意見となってしまうが、この年、明らかに1980年代のニューウェイブは終焉を迎えていた。

もう音楽的に新しいことはほとんどなくなっていたし、ファッション的にも終わろうとしていた。

仕方ないことだ。流行はいつか終わるのだ。
PUNKは様式化(form)していったが(いまでは古典芸能のようだ)、ニューウェイブはformではなくstyle、いやそれ以上にmodeのほうだったのだ。

1991年、ロンドンでのファッション・シューティング。モデルのボディスーツはパム・ホッグ。

翌87年、The Sugarcubesのデビューアルバムが出た。あのビヨークを擁した。
だが、これを聴いたときにニューウェイブの終焉を確信した。
そして同年、アシッド・ハウスの波が押し寄せてきた。
アナログ12inchを買い漁り、ニューウェイブから完全にアシッド・ハウスにシフトしてしまった。

ギグからクラブへの移行期の1989年、ロンドンのデザイナー、パム・ホッグのコレクション「Warrior Queen」の記事を『i-D』誌で見た。
表紙のモデルも彼女だった。

『i-D』誌、1989年8月号。パム・ホッグの特集で、左の写真はパムご本人。

クラブウェアの新鋭といった感じで、完全にクラブファッションが売り。
当時はそういうジャンルが確立しようとしていた。
しかもパムはとびきりの美女だった。
それからパムに熱狂して、以前のコレクションのことも調べまくったが、いまのようなネットがない時代だから、けっこう苦労した。

いずれ別に詳細を書くつもりだが、1990年に『pump』をいう日本で初めてのクラブミュージック専門誌のアートディレクターをすることになった。
さらに翌年にはロンドンで取材とファッション・シューティングの話も。
...たぶん人生で最もエキサイティングな時期だった。

『pump』(ソニーマガジンズ)1991年9月号。筆者(長澤)によるロンドン取材でのパム・ホッグ・インタヴュー記事。

ロンドン、ブリュッセル、ドイツの田舎町(場所は忘れたが、その田舎でレイヴパーティが開かれるということで)の取材で約2週間。
取材とは別のファッション・シューティングのロケハンもしたり、現地のコーディネーターに手配してもらったカメラマンやスタイリストとの打ち合わせも。
さらに夜中は毎晩、クラブ取材。ともかく朝から夜中までよく働いた。
その間、コーディネーターにパム・ホッグに連絡を取ってもらっていた。
彼女はグラスゴーに行っており、インタヴューは不可能かと諦めかけていたが、こちらが帰国する前日、ロンドンに戻るので会えるという話になった。

彼女のショップの前に出されていたテーブルセットで取材した。
ショップの写真はOKだが、彼女の写真はそのときはNGで、別にスタジオで撮った写真を使って欲しいと渡された。
それが上の誌面に掲載した写真である。


その夜、ホテルで雑誌の台割りを組み直して、急遽、パムのインタヴュー・ページを作った。
でも、気分的にかなり舞い上がっていたので、正直、何を質問したのかもほとんど覚えていない。
あとで記事を読むと、こちらが(まったく無名の)彼女のバンドのことまで知っていたので、かなりびっくりしているようだった。
ともかく彼女は美しく華やか、とびきりチャーミングだった。

路上のテーブルでのインタヴューだったので、たまたまロンドン取材に来ていたアメリカのTV局がみつけて、そのインタヴュー光景を撮らせてくれ、と。

取材しながら、それを取材されているという後にも先にも唯一の経験で、まるで映画のシーンのようにその場面が断片的な映像として記憶にあるが、全体としてはもう朧気だ。
ともあれ、パムと会えた。『i-D』誌の表紙を見て、恋するほどに憧れたパムと。
その数日前にモデルを使ったファッション・シューティングではパムのボディスーツを着用してもらっていた。想いが通じたのかもしれない。

パムはその後、バンド活動に執心したり、映像に向かったりしたものの、ファッション・デザインは続けて、2016年、イギリスの音楽賞〝ブリット・アワーズ〟でデザインでの功績に対しトロフィーが授与された。

もちろんいまも彼女は現役で活動している。生年は明らかにされていないが、筆者と同じくらいの年齢かと思う。
1991年のロンドン...そこで出会えただけで、いまの僕は人生に充足感を感じることができる。