2025/10/05 04:47

40年ぶりくらいにマレーネ・ディートリッヒ主演の『嘆きの天使』を観た。
大昔にこの映画を観たときは、『モロッコ』でディートリッヒに夢中になっていた時期なので、好きになれなかった。

ディートリッヒはまだあまり洗練されておらず、ぽっちゃりしている。衣裳がまた垢抜けない。
場末のカバレットらしさを出そうとしたのだろうが。
だが、40年ぶりに見直してみるとまったく違う側面が見えてくる。


スタンバーグはすでにハリウッドで『暗黒街』や『紐育の波止場』といった佳作を撮っていたが、『嘆きの天使』にはまったくハリウッド風味がない。
これはドイツ表現主義映画の末裔なのだ。
それはUFAのプロデューサー、エーリヒ・ポマーの要請だったのだろうか? 
いや、のちにスタンバーグは『恋のページェント』でもロシアを舞台に表現主義的バロキズムを強く打ち出しているし『西班牙狂想曲』もそうだ。
スタンバーグの本質はハリウッドらしからぬバロック的な素養であって、『モロッコ』の洗練はスタンバーグがハリウッドに合わせようとしたのだろう。


薄暗く狭い路地のシーンが何度も出てくる。
表現主義映画特有の「街路」である。
教授職にしては狭い部屋...スタンバーグは広い空間よりも狭い空間で何かがひしめいているのが好きなのだ。
『恋のページェント』の宮廷でさえ、狭苦しかったように。
そしてカラクリ時計から繰り出す異形の人形。
これも『恋のページェント』に連なるが、そんなどれもが表現主義的なのだ。
1920年代前半の潮流だったはずのドイツ表現主義の暗い映像が『嘆きの天使』を通じてハリウッドで蘇ってしまったわけだ。


それにしても20年代の安カバレットの雰囲気は良く出ている。実際のほうがもう少し洗練されていただろう。
でも、座長の妻役ローザ・ヴァレッティは、映画ではごついおばさんにしか見えないが、当時、現役のカバレチストだった。
舞台で並ぶ冴えない女性たちはスタンバーグがわざとそれを強調したくて選んだものだろう。
安っぽい舞台も。
そして舞台そばの柱にはフィギュアヘッドのような女性像の彫り物が。
舞台の冴えない女性も、木彫り像もすべてスタンバーグのバロック趣味で、それが『恋のページェント』で全開することになる。
あるいは『上海ジェスチャー』で。


そんなふうに観ると、この作品はのちのスタンバーグの本質が随所に表れていることに気づくのだ。

とことん叩きのめされていくラート教授の姿をあそこまで描くことの強烈さ。
だがじつはディートリッヒ=ローラはそれほど酷いことをしたわけではない。
最後に色男が出現して、ちょうどそこにラート元教授の最悪の凋落が交差しただけだ。


だからじつはラートは自分で深い穴に墜ちていったようなものなのだが、人はローラを性悪な悪女とみる。
その悪女がとてつもなく魅力的に見えた時代...
もうすぐファシズムの時代がやってくることが、そんな世間の空気から予感させられる。