2024/07/22 23:03

グラフィカルな本ばかりを扱う古書店だからたくさんの本に接するが、海外の本の格好良さに感嘆することがある。
例えばポール・ヴィリリオの『Unknown Quantity』。
翻訳本は装丁からして人文系の〝読む本〟
ところが英語版は判型も大きく、まるでグラフィカルな〝見る本〟かのよう...

ヴィリリオといえば『速度と政治』で「革命に現前する〝速度〟」を鮮やかに切り取ったが、
その後の多くの著作も「速度」に関連するものだった。
『ネガティヴ・ホライズン』も『戦争と映画』も。

『Unknown Quantity』でもテクノロジーによる〝速度〟が事故を創出するさまを描いてる。

ところで、なぜ日本の出版社はグラフィカルな体裁の原著を、ひたすら〝読む本〟の体裁にして訳書を出すのだろう?

美術史家ユルジス・バルトルシャイティスの『鏡』も『アベラシオン』も、
原著は大判のグラフィカルな本だったのに訳書はまったく違う。
ヴィリリオもバルトルシャイティスも、思考(あるいは思想)そのものが視覚的な像を促す人ではなかったか...